知覧のヒト 創業者▶▶▶浜田正治

  • 知覧のヒト

2019.04.19

創業者 MASAHARU HAMADA

知覧のヒト 第一号は、当店を語るうえで欠かせない存在、

創業者であり、会長の浜田正治です。

若い者はここが昔から茶畑だったとおもっているが、そうじゃない。

みなさんは、この知覧が含まれる南薩地域が昔からお茶畑だったと思っていませんか?

この広大な茶畑を見て、ずっと茶畑として手入れされてきた土地だと誰もが思うかもしれません。

しかし今から60年前、そこは一円の茶畑とはかけ離れた姿でした。

農業指導員を目指し、独立してもなおお茶に携わってきた正治のエピソードを、

知覧茶の歴史を踏まえてお伝えしたいと思います。

夢だった農業指導員

正治は、20歳から県立農業試験場乙種練習生として知覧の試験場で学び、翌年から枕崎の紅茶試験場地で働くかたわら夜間高校へ通いました。

その後、23歳で農協に採用され、夢であった知覧農業協同組合茶業指導員として勤務します。


このころ、戦間期で外国からの紅茶が入ってこないため、日本国内において紅茶生産を行う必要があり、国策として紅茶産地づくりが進められました。温暖な気候を生かした紅茶栽培の適地として鹿児島が注目され、枕崎市を中心に茶畑が増設され、紅茶の品種が大々的に植えられました。

しかしながら、終戦後は外国の安価な紅茶の輸入が再開され、紅茶産地づくりは失敗に終わります。

南薩地域の農家との関わり

紅茶産地づくりへの道をとざされた農家の怒りは農家指導に当たっていた農業指導員へ向けられました。

そんな中、正治は農家を助けたいと、県からの補償を勝ち取りました。

とにかく上に噛みつくタイプの正治ですから、上からは非常に嫌われ者でしたが、農家からは非常に厚い信頼を得ていました。

南薩地域を静岡に負けない茶畑に 明るい展望を信じて

道の閉ざされた南薩地域は、紅茶生産基盤をいかしつつ、緑茶生産へと戦略を切り替えました。この当時、鹿児島県の荒茶生産量は全国三位でしたが、国内シェアはわずか5%弱であり、静岡県だけで国内生産量の6割を占めていた時代です。

この時、茶業界に関わりを持つことのできた多くの人びとは、緑茶が成長産業となることを疑っていませんでした。

しかしながら、農家の抵抗は予想以上でした。緑茶が成園となって収穫できるまで3年以上かかります。その間収入が得られないことや、緑茶への転換が高い所得につながるかどうかといった不安があったためです。

正治は、静岡の広大な茶畑を見た時から、南薩地域をそれにするのが夢でもありました。

夢のため、農家のため、またこれといった目玉作物のなかった南薩地域のため、正治は毎晩地域農家を一軒一軒訪ね、茶園への転換を説得する日々が続きました。

こうした努力が実り、知覧町においては地域農家の合意もある程度得られ、1960年代半ばころには、農業構造改善事業による茶園整備が本格化していきました。

そして、後発かつ遠隔産地である条件を克服するため、

  1. 生産コストを低減する作業機械・機械の開発
  2. 乗用型の機械が使用できる平らな茶園に仕上げる
  3. 消費地問屋が求めるロットを確保できるよう生産地者を3つの地域(組合)に束ねる

この3つの目標を掲げました。

現在の南薩地域の茶づくりにおける大きな特徴は、この時から見据えられていました。

 

39歳での独立

知覧町において、構造改善事業がひと段落し、新たな茶産地として定着しつつあった頃、正治に転勤辞令がありました。

ずっと指導員を続けていこうという気持ちでいた正治ですが、この南薩を日本一の茶産地にしたいという思いは変わらず、農協退職を決意します。

正治39歳、現社長の浜田眞一が小学校4年生の時でした。妻子を抱えての転職に、生活出来るかと心配しながらも、当時の沢山の方に励まされ、茶仲買人としての出発を決めました。

このころの鹿児島茶は、仕上屋が集積している静岡や京都への原料供給地であったため、

県内で出荷する荒茶の多くは、問屋を通じて静岡や京都に運ばれていました。

しかし当時の流通構造では、生産者が問屋に買いたたかれてしまうことが多々ありました。

こうした状況を目の当たりにし、産地の生産者をまとめたうえで産地の利を生かした荒茶販売を目指した産地斡旋商の機能を担うことになりました。

個人名を掲げてくれた静岡茶市場

全国の荒茶が集まる、静岡茶市場というところがあります。

開業してしばらくすると、鹿児島茶を求める静岡の茶商はたくさんいるが、静岡茶市場に鹿児島茶が出回らないということが起こりました。

これは、鹿児島の茶問屋が静岡茶市場とは違う流通経路を持っていたからです。

何とかしてほしいと依頼を受けた正治は、静岡茶市場に荒茶を出荷しました。

すると、「鹿児島茶はこんなにいいものなのか」と静岡の茶商から絶大な評価を受け、本来は〇〇県という札を掲げる場所に、なんと「浜田茶業」という個人名の札を掲げてもらえたのです。

さらには、茶市場に鹿児島からトラックが到着すると、トラックから荒茶を下ろす前にもう売れてしまうというほどの人気ぶりでした。

茶苗木生産組合の設立

浜田茶業は、荒茶の卸売りや「お茶のはまだ」という小売りブランドのほかに、苗木の販売を行っています。お茶の苗木は簡単に作って販売することはできません。

植え替えや新しく茶園を作るのに必要な苗木というのはとても量が多く、その苗木を個人で生産することは大変ですし、必要な量を取りまとめて販売することも難しいのです。

そこで正治は浜田茶業の創業当初に、数件の農家さんと一緒に茶苗木生産組合を立ち上げ、現在でも事務局として全国に苗木の販売を行っています。

また、世界各国からも緑茶の栽培に指導を求める声が多く、インドネシアや韓国、中国、ベトナム等に出向き、植木指導を行っていました。

お茶と共に生きてきたからこそ

このような歴史とともに浜田茶業は成長してきました。

常にお茶のことを考えて一筋にやってきた正治の熱意が今の浜田茶業をつくりました。これは浜田茶業だけでなく、知覧茶のブランド化や発展、さらには南九州市の発展にもつながっているのではないかと思います。

その意思を受け継ぎ、これからも真心を込めて知覧茶を製造していきたいと思います。